■30周年記念特別公演「細胞はなぜ癌化するか」・・・ハーバード大学医学部教授 中谷 喜洋

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ハーバード大学医学部教授 中谷 喜洋    
細胞はなぜ癌化するか
   (講演の動画)
  人間の細胞の大半は「増殖しないで生きている状態」、すなわち「静止期(G0期)」に
あります。G0期に留まる能力が正常細胞として機能する上で重要であり、、この能力を
失うことと癌化は密接な関係にあります。しかしながら、筋細胞などの例外を除き、G0期
の正常細胞が増殖する能力を失っているわけではありません。例えば、すり傷により上皮
細胞を損傷した場合、近傍の健康な細胞が増殖して、損傷部を補います。この増殖は厳密
に制御されており、治癒後も細胞が増殖し続けることは決してありません。すなわちG0期
の正常細胞は、増殖のためのシグナルに応答して増殖したのち、再びG0期へと戻るわけで
す。一方、癌細胞はG0期に入る能力を欠如しており、このような制御を受けることがで
きません。その結果、無秩序に増殖して正常細胞を侵食するわけです。細胞の癌化は多
くの場合、遺伝子異常が原因となります。遺伝子異常は、紫外線、放射線、薬剤などによ
る突然変異や、複製のエラーにより引き起こされます。普通に生活していても、ある頻度
で変異はおこります。しかしながら、細胞は癌化を防ぐ機構をもつのです。細胞は要所で
遺伝子異常をチェックし、異常が認められたときは損傷を修復します。修復不可能な異常
細胞は、細胞死(アポトーシス)により個体より排除されます。このように、細胞は遺伝
子異常に対処する能力をもちますが、遺伝子変異によりチェック機構や修復機構に損傷を
来たした場合、しばしば癌化につながります。増殖中の細胞は、遺伝子の複製
期(S期)、分裂期(M期)、SからMへの移行期(G2期)、MからSへの移行期(G1期)
に分類されます。一方、G0期は細胞周期から外れた静止状態を示します。G0期の細胞は
G1期のものと形態的に似ているためか、しばしばG0/G1と総括的にあつかわれますが、
実は全く異なるものです。G1期は6〜12時間程度であるのに対し、G0期は長期的な静止
状態にあります。では、癌細胞はどうしてG0期に留まれないのでしょうか? 逆に、正
常細胞はどうして長期的な静止状態を保てるのでしょうか? これらの問題は、癌化の機
構を解明する上で不可欠な課題ですが、未だに謎です。G0期からG1期に移行する際、多
くの遺伝子が発現されますが、鍵となる転写因子がMycとE2Fです。G0期の細胞を増殖
因子で刺激すると、Myc/E2Fの支配下にある細胞増殖に必要な遺伝子が発現され、G1期、
さらにはS期へと進行します。したがって、静止期ではMycとE2Fを働けなくする機構
が重要であり、これらの因子が無秩序に働くことにより、癌化が誘発されます。G0期に
MycとE2Fを働けなくする機構を調べたところ、特殊なクロマチン構造が関与して
いることが解りました。ショウジョウバエの遺伝学的研究で、ポリコムグループとよばれ
る蛋白群が、転写されない特殊なクロマチン構造を形成して、発生に関わる遺伝子群を時
間的、空間的制御に基づき「封印」していることが知られています。この機能は、発生時
に一時的に発現する遺伝子を、不要時に「封印」するためのものと考えられています。とこ
ろが、われわれはMycとE2Fに支配される遺伝子群も、G0期ではポリコムグループ蛋白
群の関与により、転写されないクロマチン構造を形成していることを、明らかにしました。
この機構はG0期に特異的であり、G1期や癌細胞では働かないことも示しました。今後、
癌細胞では、どうしてこの「封印」機構が働けないかを明らかにすることにより、癌治療
に貢献できると期待されます。
図1 静止細胞と増殖細胞
細胞分裂後の細胞は、G1期を経てDNA複製期であるS
期に入る。複製を終えた細胞はG2期を経て、分裂期、
すなわちM期に入る、M期では核膜が消失し、染色体
の凝集がおこる。凝集した染色体は、一列に並び紡錘糸
に引っ張られるように娘細胞に均一に分配される。G1
期の細胞は細胞周期から外れ、G0期に入ることもでき
る。逆にG0期の細胞は増殖因子などの刺激により、G1
期を経て増殖することもできる。
        
図2 クロマチンの模式図
DNAはヒストンやその他の
蛋白と結合することにより、
クロマチン構造を形成する。
さらにポリコムグループ蛋白
群がクロマチンに取り込まれ
ることにより、転写されない
特殊はクロマチン構造ができ
ると考えられる。